相応寺は昭和9年(1934)に名古屋市東区から移転してきました。

名古屋市が都市として発展していくなか、開けて行く街の様子と寺院の分布等の状況を鑑み昭和7年(1932)、本堂、総門、山門、鐘楼、書院が移築されました。
移築した時は、京都の清水寺を模して舞台が造られました。

(舞台は伊勢湾台風により消失)
書院は「駿河御殿」又は「於亀御殿」と呼ばれ、襖杉戸には狩野派による障壁画で飾られていましたが、此方も戦災と伊勢湾台風により消失し現存していません。

総門

  • 三間薬医門、本瓦葺(元は杮葺)
  • 扁額「相応寺」義直公筆

山門

  • 控柱が本柱の前後に4本ずつ計8本の八脚門。(元は杮葺)
  • 扁額「寶亀山」義直公筆

鐘楼

  • 下層三間四方、上層一間四方、入母屋造、桟瓦葺(元は杮葺)
  • 「鐘の銘」林羅山「文」義直公筆

相応院供養塔

  • 正面「相応院殿信誉公安大禅定尼」

戦没者慰霊碑

  • 山門の側に『独立歩兵第十一連隊戦没者慰霊碑』と書かれた碑があります。
  • 太平洋戦争、遠く離れた南の島フィリピンのレイテ島決戦で戦死された日本軍英霊の慰霊碑です。

以下【資料:レイテ涙雨 小林博史著】より

所謂レイテ決戦。それまでレイテ島を守っていたのは京都の第16師団他18,000人。そこへ東京の第一師団。愛知・岐阜・静岡三県出身者で構成された第26師団。その他各方面の師団ぞくぞくと増援部隊が集結。その数約75,000人。
第26師団は別名泉兵団といい、名古屋、岐阜、静岡の連隊で第一級現役師団であった。
積極的作戦、討伐を展開し中国軍(蒋介石軍)や中共軍(共産軍)から「日本の正規軍」として怖れられたと記録されている。
構成部隊は
独立歩兵第11連隊(泉5314部隊-名古屋)
独立歩兵第12連隊(泉5315部隊-岐阜)
独立歩兵第13連隊(泉5316部隊-静岡)
昭和19年(1944)10月20日。対する米軍は約730隻の艦船から上陸兵25万7千人。
1500機の空軍がレイテ島の日本軍に襲いかかった。レイテの島は艦砲、空爆でみるみる形を変え、日本軍を圧倒する悲惨な戦いであった。
第26師団兵13,778人、戦死者13,158人。その内第11連隊(泉5314部隊-名古屋)は戦死者1973名、
生還者58名であった。
戦後の昭和30年(1955)。戦友により泉会(遺族会)が結成された。会員数1200名。
そして昭和32年(1957)3月21日。相応寺境内に「独立歩兵第十一連隊戦没者慰霊碑」が建立。
泉5314部隊英霊慰霊碑である。
3日後の24日朝にはご遺族約4,000人が参列し境内が埋めつくされた。泉5314部隊の英霊2,947人。

爾来相応寺では慰霊法要を毎年3月の春分の日に執り行われていました。
平成19年(2007)年3月21日。遺族会最後の戦友が御一人となった戦後50年。節目として泉会(遺族会)は解散されました。
今日では泉会の慰霊祭はなくなりましたが、翌年よりは相応寺大念珠法要として永代供養が継続されています。

茶筅塚

  • 昭和9年、自然石の岩組の上に『茶筌塚』の三字を刻んだ茶筅形の石碑建立。
    遠州流家元主鑑堀田宗達宗匠の筆。
    開眼式に全国より茶人、雅客が参列した。
  • 秋の「相応寺のつどい」の日に茶筌供養をおこないます。

鶏供養碑

  • 愛知県食鳥商業組合さんによる鶏供養が行われます

不動の滝

  • 人口の滝 
  • 正面上部には「不動明王」の石壁仏が苔に隠れています

MAP

境内MAP

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