precincts
相応寺は昭和9年(1934)に名古屋市東区から移転してきました。
名古屋市が都市として発展していくなか、開けて行く街の様子と寺院の分布等の状況を鑑み昭和7年(1932)、本堂、総門、山門、鐘楼、書院が移築されました。
移築した時は、京都の清水寺を模して舞台が造られました。
(舞台は伊勢湾台風により消失)
書院は「駿河御殿」又は「於亀御殿」と呼ばれ、襖杉戸には狩野派による障壁画で飾られていましたが、此方も戦災と伊勢湾台風により消失し現存していません。
以下【資料:レイテ涙雨 小林博史著】より
所謂レイテ決戦。それまでレイテ島を守っていたのは京都の第16師団他18,000人。そこへ東京の第一師団。愛知・岐阜・静岡三県出身者で構成された第26師団。その他各方面の師団ぞくぞくと増援部隊が集結。その数約75,000人。
第26師団は別名泉兵団といい、名古屋、岐阜、静岡の連隊で第一級現役師団であった。
積極的作戦、討伐を展開し中国軍(蒋介石軍)や中共軍(共産軍)から「日本の正規軍」として怖れられたと記録されている。
構成部隊は
独立歩兵第11連隊(泉5314部隊-名古屋)
独立歩兵第12連隊(泉5315部隊-岐阜)
独立歩兵第13連隊(泉5316部隊-静岡)
昭和19年(1944)10月20日。対する米軍は約730隻の艦船から上陸兵25万7千人。
1500機の空軍がレイテ島の日本軍に襲いかかった。レイテの島は艦砲、空爆でみるみる形を変え、日本軍を圧倒する悲惨な戦いであった。
第26師団兵13,778人、戦死者13,158人。その内第11連隊(泉5314部隊-名古屋)は戦死者1973名、
生還者58名であった。
戦後の昭和30年(1955)。戦友により泉会(遺族会)が結成された。会員数1200名。
そして昭和32年(1957)3月21日。相応寺境内に「独立歩兵第十一連隊戦没者慰霊碑」が建立。
泉5314部隊英霊慰霊碑である。
3日後の24日朝にはご遺族約4,000人が参列し境内が埋めつくされた。泉5314部隊の英霊2,947人。
爾来相応寺では慰霊法要を毎年3月の春分の日に執り行われていました。
平成19年(2007)年3月21日。遺族会最後の戦友が御一人となった戦後50年。節目として泉会(遺族会)は解散されました。
今日では泉会の慰霊祭はなくなりましたが、翌年よりは相応寺大念珠法要として永代供養が継続されています。
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