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相応寺の歴史

寶亀山相應寺縁起

尾張徳川家菩提寺

初代藩主義直が生母相応院お亀の方の菩提のため現在の東区山口町に一万ニ千坪の境域を定め建立。
本蓮社眼譽呑屋上人(寛永20年(1643)8月、高岳院第二世より入院し正保三年(1646)3月、黒谷金戒光明寺に入院)をもって開山とし寛永20年9月(1643)お亀の方一周忌に合わせ堂宇落成。
同9月11日より16日まで相応院殿一周忌千部経供養が厳修され同16日義直公自ら山門額の山号、本堂額の寺号を書して掲げ、代々山門外にて下馬入山す。
慶安三年(1650)5月、義直公江戸邸にて没し後遺骨を当寺に入れて供養。後に定光寺に義直廟墓造営され葬られる。寺領三百石を賜り爾来尾張徳川家の夫人・子女が葬られるとともにその遺品も納められた。

尾張の国(愛知県の西部)、美濃の国(岐阜県の南部)の布令頭として、歴代藩主が崇拝し参詣された。
寛文2年(1662)に駿河の国(静岡県東部・中部)より「駿河御殿」、または「お亀御殿」と称す御座所が移建された。
昭和7年(1932)第42世住職眞野耕雲上人の代に、東区山口町から千種区城山町へ本堂、総門、山門、鐘楼、書院(駿河御殿)が移転された。


昭和7年、名古屋市はこの城山界隈を京都の東山をモデルとして開発がされました。
村名も「田代村」から「東山村」とされ、城山地区には、お寺が(10ヶ寺)集まってきます。
とりわけ相応寺は山水景勝の地に建てられたため、京都の清水寺を模して、本堂前に清水と同じ舞台が造られました。そして京都清水寺から秘仏千手観音像の御分身(現在未公開)を賜り、毎月18日には観音様の法要が盛大に執り行われ、戦前までは名古屋の清水寺として多くの市民が参詣されたと伝わっています。
太平洋戦争、伊勢湾台風によって、清水の舞台、そして駿河御殿は全く旧態を残していませんが、清水寺より賜った御分身木造千手観音が寺の秘仏として安置されています。

境内清水千手観音

相応寺は2年の歳月を経て移築されました。山水景勝の城山の地の丘陵地に建てられ、京都の清水寺を模し本堂前に舞台も造られました(戦災により現存していない)。
移築した相応寺の興隆を計る目的で京都清水寺観音の御分身を勧請し、昭和9年4月18日、京都清水観音分身奉安御開帳式が厳修されました。爾来毎月18日には法相宗管長清水寺大西良慶貫主が来名され多くの市民が参詣されていたと記録が残っています。

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